PXE(弾性線維性仮性黄色腫)や網膜色素線条症の患者の人たちの体験談を紹介します。

内容は基本的に本人の記憶や認識に基づいています。(まとめ・丸山博)

 

 


【東京都在住 男性 61歳】本人執筆(2019年4月11日)

 

 10歳の時に脇の下にぶつぶつ(丘疹)がある事に気付きました。近所の個人病院(内科、皮膚科、泌尿器科)で受診しましたが病名が分からず、直ぐにA大学病院を紹介されました。その際、大学病院を紹介されるという事は、何か重い病気なのではと、不安な気持ちでいっぱいになりました。

 大学病院で受診したところ、丘疹がどの程度皮膚の下まで達しているのか、一部を採取して調べると言われたので、さらに不安な気持ちが増幅しました。その後、別の診察室に通されましたが、そこには偉そうな先生と何人もの若い先生がいました。私は母と一緒でしたが、とても不安で緊張しました。今でも鮮明に覚えています。大学病院に行ったのは初めてだったので、大学病院ではいつもこんなに沢山の先生が出てくるのかなと思いました。今考えると、希少疾患の患者が来たので、インターンの若い医師が見に来ていたのかも知れません。

 丘疹を採取して診断された病名は、長くて難しい名前だったので、はっきりとは覚えていませんが、「だんせい、せい」という言葉が入っていたので、おそらく「弾性線維性仮性黄色腫」と言われたのではないかと思います。この時、「だんせい」とは男性の事かなと思っていました。

 結局、丘疹を採取したのみで、目の検査を行うわけでもなく、目や内臓、血管等への影響については一切の言及はなく「病変が皮膚の下のどこまで達しているのか分からないので、念の為に激しい運動は避けた方がいい」とだけ言われました。激しい運動はしてはいけないのか、運動したらどうなるのだろうと、また不安な気持ちになりました。一緒にいた母が医師から個別に詳しい話を聞いていたのかは分かりません。

 

 中国地方の自然豊かな山の中で生まれ育ち、いつも走り回っていましたが、運動を避けるように医師に言われてから、身体を使って遊ぶことを控えるようになりました。暫く体育の授業を休みました。でも、そのうちにまた遊び回ったり、体育の授業に参加したりするようになり、この病気はただの皮膚病の一種くらいと深刻には考えずに過ごしていました。

18歳まで親と同居していましたが、親からこの病気について特に何か言われた事はありませんでした。18歳頃には脇の下の丘疹が少し広がってきていましたが、目立たない場所でもあり、あまり気にしてはいませんでした。

 

 親元を離れて大学に進学し、ボート部に入部し4年間過ごしました。ボート競技は全身を使う非常に激しい運動です。頭の片隅には「子どもの頃に『激しい運動は避けた方がいい』と言われたけど、大丈夫かな」という思いが残っていました。

 

 会社に入社後、20代半ばで脇の下だけでなく太腿の付け根あたりにも丘疹が徐々に広がってきていたので、総合病院で受診しました。その時言われた病名ははっきりとは覚えてはいませんが「この病気は治療法がありません」と断言され、少しショックを受けました。この時も、目やそれ以外の臓器等への影響については何の言及もありませんでした。治療法はないが単なる皮膚病の一種に過ぎないのだろうと思いました。重篤な症状に至る可能性のある病気とは全く思いませんでした。

 

  30代初めに人間ドックで目の網膜異常を指摘され、町の眼科で再検査をしましたが病名は分からず、「網膜の模様が他の人とは違う。40年来眼科医をやっているが、このような症状の人を初めて見た」と言われました。何の自覚症状もなかったので、単に他の人と網膜の模様が違う程度と考え、まさか目の網膜異常と皮膚の病変が同一の病気からくる症状であるとは全く考えていませんでした。

 

  40代半ばに近所の総合病院で眼科を受診した際に、首回りや肘の内側の皮膚病変を見た医師からPXEの可能性を指摘され、一度精密検査を受けた方がいいと言われ、B大学病院への紹介状を書いていただきました。B大学病院の眼科と皮膚科で受診し、網膜色素線条症と弾性線維性仮性黄色腫(PXE)と診断されました。その際、特に治療をするわけではなく、網膜色素線条症については、網膜の断裂が中心に達していないので、今のところ経過観察でよいと言われました。

  PXEの研究の為に1週間程入院して精密検査をさせてもらえないかと言われました。この申し出に一度は承諾しましたが、仕事の関係で後日断りましたが、よほど希少な疾患なんだなと思いました。

 

  その後は、C大学病院の眼科で半年に一度検査をして経過観察をしていましたが、そこでこの病気は最悪失明するリスクがある事も聞きました。2年程経過観察を行ったところで、病状に変化がないので、検査だけなら町の眼科でも出来ると言われ、紹介された眼科で半年に一度検査をして経過観察をしながら現在に至っています。全身の血管について調べた事はありません。

 

 人間ドックはほぼ毎年受け、その都度網膜の異常を指摘されましたが、網膜色素線条症と診断された事はありませんでした。毎回自分から病名を申告しており、会社からは定期的に検査を受けるように指示が出ています。また、PXEについて人間ドックで指摘された事は一切ありません。今のところ自覚症状があるのは皮膚病変のみで、毎日元気に通勤していて、業務に支障はきたしてはおりません。

 

 以上が私のこれまでの経緯ですが、今まで受診した病院の医師から、失明リスク以外にこの病気が今後進行した場合に、どのような症状が出る可能性があるのかなどの詳しい説明もなく、ただ目の経過観察のみであり、皮膚病変の進行を見るにつけ、今後どうなっていくか不安な気持ちを抱えて過ごしていました。

 今まで同じ病気の人と会った事も話を聞いた事もなく、また、誰に話したり相談できるわけでもなく、何で自分がという思いを持ちながら、治療法がないなら病院に行っても仕方ないと、不安を抱えたまま半分諦めていました。そのような中で、少しでも情報を得たいとネットでこの病気の事を調べて、初めて遺伝性の疾患である事や様々な重篤な症状に至る場合もある事を知りました。

 ますます不安になり、さらにネットで色々と調べていた時にPXEジャパンの活動を知り、すぐにオフ会に参加させていただきました。毎回10名程の方が参加されており、今までの各自の経緯や治療した病院、治療法などの情報交換や活動報告がされています。この会に参加して、悩んでいるのは自分だけではなく、皆さんが前向きにこの病気に向き合っている姿に触れて、勇気を貰った気がします。

 同じ病気で誰にも相談できず悩んでいる方がいらっしゃるのではないかと思います。一人でも多くの方が当会に参加していただき、この活動の輪がさらに広がっていく事を期待しています。


 

【関東在住 女性 61歳】(2018年6月1日)


 2005年春にテレビの字幕がうまく読めないことに気づきました。その時は大して気にしませんでした。

 数カ月後、駅の階段を踏み外して転倒し、顔を強打しました。総合病院で目の検査をしたら、左目がまったく見えなくなっていました。

 眼底検査の結果、網膜色素線条症と診断されました。その総合病院の眼科に、ある大学病院から来ている先生がいて、たまたまその先生に診てもらったことが幸運でした。その先生が網膜色素線条症の患者を以前にも診たことがあったため、私の時もすぐに診断がつきました。遺伝性ということも教えてもらいました。(弾性線維性仮性黄色腫の)全身症状についても教えてもらいました。血管に瘤ができやすいこと、皮膚に症状がでることがあること、心臓に症状が出ている人がいることなどです。高校生で診断されている人もいるとも聞きました。すぐに皮膚科にも行きましたが、私の場合、皮膚の症状はありませんでした。

 

 左目が見えていなかったのは、駅で転んだときの出血によるものだったようです。

 数カ月後、キッチンのタイルの格子状になっている線がゆがんで見えたのです。本を読むとき、字は普通に読めたのですが、本を開いたときの真ん中の線が曲がって見えました。その時に左右どちらの目の見え方に変化が出たのか今では思い出せません。病院では、「このまま様子をみましょう」と言われ、経過観察することになりました。

 とても混乱しました。医師に聞いても予後は分かりませんでした。

 自分でいろいろな本を読み、必死で調べました。食事療法の本を出している眼科医のところに行ってみました。甘い物をほとんど食べず、玄米、野菜、魚などを主に食べました。最初は頑張って実行しましたが、かなり厳格で、つらくなって、長続きはしませんでした。今もできる範囲で健康的な食生活を心がけています。ルテインのサプリメントを飲んだりしていますが、本当に効果があるのかは分かりません。

 

 視力が一気に悪化したのは2011年3月11日の東日本大震災の直後でした。家が大きく揺れ、そのショックや不安が続いていました。ある時ふと気がつくと、家の照明が非常に暗くなったような気がしました。いつもの半分ぐらいの明るさに感じられたのです。

 今も通院しています。視力は左が0.02で、両目合わせて0.2以下です。視覚障害の5級です。見え方としては、中心より上半分が見えず、下の方は見えています。駅のホームで何番線か書いてあっても、読めません。近所の人とすれ違っても、顔が識別できないので、あいさつができず、失礼なことをしていないかと心配になります。外出先でおしゃれなトイレに行くと、ボタンの位置が特殊な場所にあったりして、探すのが大変なんです(笑)。

 

 家事は工夫しながらこなしています。白い茶碗だとご飯粒がついていても分からないので、黒い茶碗を使っているんです(笑)。しゃもじも黒なんです(笑)。大根など白いものを切るときは黒いまな板を使うんですよ(笑)。

 何かを読むときはルーペを使って拡大して読みます。その方法で時間はかかりますが、レストランのメニューも読めます。

 

 網膜色素線条症の患者会がなかったので、加齢黄斑変性の患者会「加齢黄斑変性友の会」に数年前に入会しました。そこで、網膜色素線条症の人が私以外に2人いたのです。その3人で集まることもありました。友の会のみなさんと、目に関するいろいろな悩みをお互いに話せたことで本当に助かりました。

 

(Q丸山:PXE(弾性線維性仮性黄色腫)の診断は確定していますか?)

 昨年11月に東京で開かれたシャロン・テリーさんの講演会に行くまで、私はPXEのことはあまりよく理解していませんでした。私はPXEとは診断されていません。眼科で網膜色素線条症が見つかっても、経過観察となることがほとんどです。眼科医は目だけ、皮膚科医は皮膚だけ、ということになってしまっている気がします。目に病気が見つかって、皮膚や心臓、脳などにいろいろな病気が疑われるなら、一人の人間の身体として、全身を総合的に診る医療にしてほしいと思います。

 

(Q丸山:いつも笑顔で話し、表情が明るいですが、明るく生きる秘訣はなんですか?)

 そんなことないです(笑)、実は私は根暗なんですよ(笑)。

 これまでの経験から判断して、ストレスが目の症状となって表れると思っているので、ストレスを減らして暮らすことを心がけています。

 加齢黄斑変性友の会でみなさんと知り合い、みなさん不自由で大変な思いをしていることが分かり、自分一人じゃないと分かったことで、前向きに考えられるようになりました。くよくよ考えても解決策がないんだったら、落ち込んでいても仕方ないと思いました。くよくよしていたらなおさら目に良くないと思います。

 

 病気の体験を共有できる人がいると、気持ちが楽になります。今こうやって(喫茶店で)お茶を急須から注いだらよく見えなくてこぼしてしまったんですが(笑)、同じ病気の人だったら、こぼすことがあることをすぐに分かってくれる。そんなどうってことないことが、救われるんです。自分一人ではないことが分かると、救われるんです。

 網膜色素線条やPXEで一人で悩んでいる方がいると思います。私の体験談が何かの役に立てば幸いです。ありがとうございました。